昭和四十六年八月二十七日


X御 神 訓一 用心せよ、わが心の鬼がわが身を責めるぞ。


(録音の調子悪く前半不明の処所多し)(以下とぎれてる処多く不明のところあり)
 同じ仏教の教えを頂いて居りましても、物の見方、考え方など、主観の相違が同じ事として、甲の人は責め苛まれ、乙の人はけれども感じないと言う事になるのですから、これが本当だと言うことは仲々分からない。………私どもの、例えば教祖様のお教えに………こんな事ではおかげは受けられん、こげな事ではおかげは受けられんという様な事がわが身を苛める……出来ぬとお詫びの印しにと言った………  ………  ………
それで我が身を苛める事がないから、苦しい事はないのである。おかげを落とす様な事はないかも知れませんけど、それ以上のおかげを受けて行く事は出来ません。やはり自分の心が自分の心を責める様な事があって、そこに改まって行くという精進が………
……考え方の相違が一人は責められ、一人は平気でおる。やはり自分の身を責められる様な、在り方の方が信心になる。………
そして自分の行に対して呵責の念に堪えられない苦しみ、呵責の苦しみを受けるという事が、信心さして頂くとそんな事はありません。ま、ここは信心者として、信心者の良識としてです、例えば殺人犯とかね、いつも、いつも何からか追い掛けられている様子、獄中の中にあっても、その自分が殺した人の何か怨霊というものが、いつも責め苛まれて、それこそ監視についておる人の言われるですがね、もう大変、夜夜半でも悲鳴を上げたりなんかする相ですね。
 只こういうのは本当の意味で、我が心の鬼がわが身を責めておるとですね。今日はそういう意味じゃない、私ども信心させて頂いておる者は、火の車を作る筈もないし、人殺しをする筈もないし、いわゆる主観の相違を言うた様なことを。物の見方、考え方、そういう意味で申しますと、私どもはですね何時も自分の心の中に道を作るとか、自分の心の中に引っ掛かりがないと言うこと、例えて言うとその反対をいうと、人間は人を助ける事が出来るのは有り難い事ではないという、お教えがありますね。とにかく人を助けると人は喜んで参る、その後のこちらの心のあり方という事は………
本当に心で、誰もしらんけれどもその人の為に、そういう事のために………祈る心が行の上に表れて来る。………
それは、わが心の神様を拝むという事です。今日はそれとは反対のこと。こんな事では自分はおかげは受けられんと、例えば自分の精進の足りなさを、私はそういう心でここのところを頂いて貰いたいと思う訳です。厳密に自分の心というものを見つめさして貰うと、こげな事ではいけないと思う心は何時もある。と言うのはわが心の鬼がわが身を責めて来る、だから責められる心があるからこそ、次の信心に進んで行く、こんな事じゃいかん、こんな事ではいかんと、心の中に頂かして貰いながら、日々御用をさして頂いとりますから、何かそこんそんな機会を待っておりますから、そこにチャンスが生まれて来る。そこから又今迄と違った……事が出来る。いつも同じ事なもの同じ様な事で、心が責められる事では信心は進展して行かんし、だから心の中ではこんな事ではおかげを頂かんし、こんな事ではおかげは頂かんと思うし、自分でおかげを締め出している様なものである。この辺のところの兼ね合いが分かれば思わぬ事であります。
 自分が責められる様な事があると言うことは、信心が進展して行くことと言うて、なら信心はそのままであると言う事は、いわゆる自分の心の中におかげは受けられまいと思う。そこで私は本気で改まらして貰う、本気で改まる信心をさせて貰う事になる。責められ通しではいけない。責められると言う事は改める事によって、信心の段階というものが段階を追って行く、そうしてそこに結果として頂けることが、より本当の事が分からして貰い、より本当の見方が出来るという事になるのではないでしょうか。段階を追わなければ………   それはどういう事かと言うと、親鸞上人様が檀家の家でお魚を召し上がった。だから、そのお弟子までも一緒に、師匠さまが食べられたので、自分達もよかろうと思うて頂いた。そして、そのお弟子さんは破門になったという事であります。親鸞上人様の場合は常に深く道を反省して……… …… 進んで行くに従って本当の事が分かる様になった。その本当の事が分かる様になった、ものの見方、見解と言うものは、信心の浅い人から見ると狂っている様に違う、それからの上人様は呵責の念がおありにならなかったかと言うと、もう死ぬまで呵責の念に。ある  意味に於いては、呵責の念に責め苛まれたと言う事が言えるですね。残された御本なんか見ると、自分の様な堕落した者はいないと言うて。だからその経緯に於いてです、それは仏教ですから名僧列伝と言ったものの中には、親鸞上人様は入っておられない、妻帯せられたからです。親鸞上人様の側から見たら、おかしな話だろうと思います。
 人間が弱味をもって此の世に生をうける。そして言わば教祖様は、食物を……頂くものも有り難いという、素晴らしい境地に似た様なものを、上人様はまあ身につけられたのではないでしょうか。だからこそ、殺生と思われるような事も…… 妻帯なんかも、やはり有り難く…… それはそれだけ信心が進まれ、それだけ自分の心の呵責によって、絶えず一段一段進んでおいでられ、そこから物の見方がそういう風に変わってくる。ですからこれは私ども信心させて頂くものも、そこんところを本当に分からないとですね、まあ例えて申しますと、ならここで私と修行生とのことを考えても、先生がタバコをのむからのんでよいと、先生が酒を飲まれるから飲んでもよいと、先生が昼寝をされるから横になってよいとか言うたらですね、私と同じ信心の段階にある事になるのです。あればそれで良いのです、けどその信心を頂こうとして、その人の信心の歩かれた道を一歩一歩進めて行こうとするものは、私が過去に於いて歩いて来た道を通らなければ、おかげの頂かれる筈がない。まあこれは一事が万事に言える事である。だから私が親鸞上人様であるならば、破門という事になるのである。修行生の分際でという事になるのである。ああ先生の言われる境地と言うものは、こういう境地であろうかと言われるものを、一っひらいて行くところに信心の精進というものがあるのである。
 用心せよ、わが心の鬼がわが身を責めるぞ。そこに何時も自分の心を使うて行けとこういう訳である。そしてわが心の中に、そして私の心の中に、心の中にわが心を責める様な事は、もう無いかと言うとあるのです。それはもう皆さんが聞いたら、それ程に引っ掛かんなさるですかと言う様な、信心の浅かった時代には全然思いもしなかった様なことに、私の心はやっぱり呵責を受けておる訳です。恐らく一生そうであろうと思います。と言うて信心の薄かった時分に、の生き方とか、在り方とは全然違って、信心の言わば本当の事が分かる、本当の見方が出来る。
 例えばお金でもそうです。某の初代がそうです、自分の金を自分の事に使われる時には、一円の金を使われるでも百円を使う様な思いでと仰しゃった。これは道理はそうですけど、実を言うら又神様の事に百円を使うときには、自分のことの一円を使う様な気持ちで、それこそ自分の事には、一円の金も使う心はおありでなかったと言うこと、神様の事に使って。それは私ですらがそうです、事、神様事に使わして頂くときにはもう、例えば百万円のお供えが出来ても十円の金を使ったがたと思ってないのです。本当のことが段々分かって来る。自分のものじゃないのだから、本当に惜しげがある筈がない、あるならおかしい。もう当たり前の事としてそれが使える、自分の事に使うとき、例え十円の金を使うでもお詫びをする様にと言うことと、神様からその度々に頂く様にと言うこと。これをですね本当の事が分かって来んと、なら私が、例えば詰らんものを買うたと致しましょうか、それは以前はもう、自分が儲けて自分が買うたのじゃから、もう誇らしげに買うた事を言うたり、思ったりするでしょう。
 ところが現在の私は、もし私にそういう事があったとするならば、もうお詫びしぬく事でしょう、いわゆる心の呵責があるからです。神様のお金をいらぬものに使うたと言う事が心の呵責になる。これからとてもおかげを受けなければならん、こういう事では神様は、おかげ下さらんぞという心が心の中にある。だから、その様な開きがあるものをね、そこまでの私の信心が分からんものがです、私が金を使うたからと言うて、自分も金を使うなんてん言うて使うておかげの頂ける筈がない。そういう心に用心せよ、心を使うていけ、信心させて頂くものはそういう事に心を使うていけ、そうでないと心の鬼がわが心を責めるぞと言う事に。かと言うて自分というものを元気に反省させて頂くとですね、信心の無かった時代は平気でやっておった事が相済まん事であり、お詫びせなければおられんという、言わば自分の心の鬼が笑いましょう。それが出来たら次の段階に進む事が出来ましょう。今日はそういう様な意味の事をそういう意味で頂きました。
 火の車をつくって、自分がそれに乗って行ったら、殺人を犯したらその怨霊に追いかけられておる、そういう意味のことは信心者にはまず無いとして、信心者が一段と信心を進めて行くことに於いてです、親鸞上人を例にとりました。ですからそこのところを、私ども一段一段信心を進めさせて頂く時にです、割り切った考え方を致しますとです、もう弟子も師匠も同じ事になりますけども、けれどもそこからはもう信心は進みません。進展しません。信心はいつもどこ迄もね純な心、本気信心を体得しょうと思うたら、その自分の心というものを、いつの時代も失うてはならぬと思いますね。     とうぞ。